ざるうどんに至るまで
昭和27年頃、川福創業者が学校のバザーに出店する事になったとき、厨房の事情から仕込みが出来ず、生醤油かけ饂飩をお出しする事になりました。
しかしお出しした饂飩に比べ頂いた御代があまりにも少なかったため、初代は「こんな値段しか貰えない饂飩では商売にならない、いつまでも貧乏なままだ。」と感じ、商売になる饂飩を作ろうと考えました。
饂飩を作る工程がすべて手作業であった時代ですから、初代の思いは無理からぬことであったかと思われます。
当時の饂飩のメニューはゆだめと天ぷら・きつね・かけ・かやく・鍋焼きなど数点しかなく、冷たい麺に至っては水を張った鉢に麺を入れた「冷やし」のみで、これは熱い夏の季節にしか売れない商品でもありました。
そしてこの頃、今はどこのお店にでも見られる「ざるうどん」はまだ生まれてはいなかったのです。
古典落語に「蕎麦の先にちょっと出汁をつけ、一気に食べるのが粋だ」と言うのを聞くたびに、「嫌だ、俺はたっぷりつけて喉越しを味わいたい。」と申しますのが初代の常でございました。
落語をきかなくてもざる蕎麦からざるうどんを思いつく事は難しくなかったかと思われます。しかし饂飩には蕎麦程の味や香りがなく、また当時の讃岐では家庭料理の観念が強かったので、蕎麦のようにお召し上がりいただくということは難題でした。
では召し上がっていただくにはどうすればよいのか、「蕎麦職人の作る蕎麦があるように、饂飩職人がつくる饂飩を作ることだ。」と初代は考えました。
では饂飩職人がつくる饂飩とはどんなものか。。。
それは讃岐の人間が饂飩を味わうに当たって決して妥協することのできないもの、それこそが喉越しであり、初代の求める饂飩でありました。そこからうどんのための麺作りが始まったのです。
試行錯誤の上に初代はまず麺の表面を滑らかにするために加水量を減らしました。このために麺体を踏む時間がそれまでの倍となり、初代は麺体踏みを幼い二代目現店主にまでさせることにしました。
加水量を減らしたために、より硬くなった麺体を麺棒で長さを1メートル位になるように打ち込み、喉を通る時間が少しでも長くなるようにしました。
また麺の太さも割り箸の先の太さで包丁を入れて、一度に沢山の麺を喉に通す事によって苦しいほどの喉越しを味わっていただこうと考えたのです。
そして今では極々当たり前となった、ご注文をお受けしてから麺を釜に入れ、いつも茹でたての饂飩をお出しするということにしたのです。
「25キロの粉袋を担いで麺を踏まされた時は殺されるかと思ったが、親父が出してくれた饂飩は少ない明かりの中でもピカッと光っていた。ツルツルゴクっと喉を通ったときは・・・・・・、旨くて旨くて気がついたら11杯も食べてしまった。」と二代目は初めて食べたざるうどんの思い出をこう申します。
それから程無くして、いつも天ぷらうどんを召し上がるお客様がいらっしゃいました。初代が二杯目の饂飩にこの新作の饂飩をお勧めしたところ、お客様は興味津々で快諾されました。
初代は巻すを敷いた皿に麺を載せ、ざる出しを添えてお出しすると、御客様は ‘‘旨い‘‘ を連呼しながら召し上がられました。
これが ‘‘ざるうどん‘‘ の第一号でございます。
今でもこの時のお客様の満足気な顔と、初代の嬉しそうな顔が思い出される、と二代目は申します。
しかし好評であったにもかかわらず、初代はなかなかこれをメニューに載せようとはしませんでした。ただ熱い饂飩を召し上がったお客様に二杯目の饂飩としてお勧めするだけだったのです。
二代目がこれについて聞くと「冷たい出汁は味が濃いから先に食べると後の天ぷらの味が変わる、それに冷たいもんは熱い後に食べると旨いんや。この饂飩が、どれだけ旨いかという事をわかってもらうためや。」と答えました。
この時二代目はざるうどんが初代にとっていかに思い入れ深い商品であるかを思い知ったといいます。
ざるうどんはとにかくよく売れました。「麻薬でも入れているのか」と冷やかされるほどに、讃岐の麺通達はもとより大阪、名古屋、東京からもお客様がざるうどん目当てに来店され、数年後には日本各地で見られるようになったのです。
‘‘饂飩玉だけで御代を頂戴できる饂飩、一年中召し上がっていただける冷たい饂飩‘‘、初代の言うこの二つの条件を満たす饂飩が ‘‘ざるうどん‘‘ であり、現在の川福の土台を築く礎となったのです。
店主敬白
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